ロールズのリベラリズム

一〇万人の幸福のために一千人が犠牲にされることは道徳的に正しいだろうか?

いや、正しくない。それは〈公正〉に反している。

正義は、公正な契約によって達成されるのである。

ロールズ〈公正としての正義〉

ジョン・ボードリー・ロールズ (John Bordly Rawls) は一九二一年のアメリカ、メリーランド州の上流階級に生まれた。

ジョン・ロールズには二人の弟がいた。しかしジョンが七歳になる一九二八年、ジョンから感染したジフテリアが原因で一歳年下の弟ロバート・ロールズが夭折する。さらに翌年の一九二九年には生後七ヶ月の弟トマス・ロールズが同じくジョンから感染した肺炎で命を落とす。幼くして二人の死に直面し、その死に負い目を感じたジョンは吃音障害を患う。

二人の弟を喪ったジョンは政治運動家である母と弁護士である父の期待に応える形で上流私立校に通うことになる。ジョンがそのような地位にいる一方、彼の生地であるメリーランド州にはアフリカ系住民も多く在住していた。上流私立校に通う彼は、黒人と自分たちが全く異なる境遇にあることに気づいていた。彼らは教育を受ける機会をほとんど与えられておらず、将来の見通しも格段に悪かった。何ら負うべき責任も無い人々が、単なる偶然の下で不幸になっているという不当 (unjust) な現実を、ジョンは目の当たりにした*1

市場と功利主義 —『正義論』までの社会状況

市場経済の劇的な発展が後押しする中、功利主義は十九世紀以降の社会思想をほぼ一貫して支配していた。事実、市場経済と功利主義は幾何級数的に人々の暮らし向きを改善していった。功利主義に対する直観主義からの批判もあるにはあったが、このような社会状況も手伝ってか功利主義と全面対決できるような体系的倫理学は長らく出現しなかった。功利主義に基づいた「合理的」な政治学や経済学に押されるままに、倫理学は「あるべき政治や経済」というような規範の定立から距離を置き、思想史研究や言語分析に偏重していった。

しかし、市場経済と功利主義それ自体は自由や平等といった理念にその目的があるわけではない。市場は支払うべきお金を持った他人の選好を満足させる能力の関数として人々に報酬を与えるだけであって、各人の生育環境や行為、制度の道徳性に関心を持つことはない*2。最大功利を阻害しない限りマイノリティを抑圧することも厭わないし、他人の選好を満たさない人間を生かしておく道理も持たない。アメリカはこのような現実をベトナム戦争、ケネディ暗殺、公民権運動等々の激動を通じて思い知ることになる。

そして、キング牧師が二十五万人のデモを率いて自由と正義を説いてから約十年後の一九七一年、ロールズの大著『正義論』が出版された。

『正義論』による功利主義批判*3

どれほど優美で無駄のない理論であろうとも、もしそれが真理に反しているのなら、棄却し修正せねばならない。それと同じように、どれだけ効率的でうまく編成されている法や制度であろうとも、もしそれらが正義に反するのであれば、改革し撤廃せねばならない。すべての人々は正義に基づいた〈不可侵なるもの〉を所持しており、社会全体の福祉を持ち出したとしても、これを蹂躙することはできない。こうした理由でもって、一部の人が自由を喪失したとしても残りの人びとどうしでより大きな利益を分かち合えるならばその事態を正当とすることを、正義は認めない。

ロールズ 『正義論』 第一章 公正としての正義*4

『正義論』はその後の倫理学史を一変させたほどに膨大な論点を持っているが、主要な目的の一つは功利主義の克服である。

現実にそうであったように、功利主義は人々にそれが最も合理的な社会構想であると思い込ませるに足る説得力を持っている。ある個人が利益を最大化するために行為することは、少なくとも他者に危害を及ぼさない限りは適切である。各人はそれぞれの行動を決定するにあたって利得と損失を差し引き計算する。あとになってより大きな利益が手に入るのであれば現在の自分に犠牲を強いることができる*5

功利主義はこのような個人にとって経験的に正しいと思えるモデルを社会全体に拡張する原理である。「ある個人が現在および将来の利得と現在および将来の損失を秤にかけるように、ある社会は異なる諸個人の満足と不満足とを比較衡量する*6」のである。かかる原理は社会の幸福の正味残高が最大化される時、その社会が適正に編成されているとみなす。個人にとって適切な選択原理を個人の連合体の選択原理としても採用するのである。

しかしこの一個人にとって適切と思われる思考様式は、人々の連合体には適切ではない。なぜなら、個人がその人生において自らの利得と損失をどう分配するかは重要な問題ではないかもしれないが、異なる諸個人の間でそれらがどのように分配されるかは極めて重要な問題だからである。だが功利主義原理は当該社会で福祉がいかに分かち合われるべきかという分配原理をそれ自体では持っていない。分配原理を持たないままにすべての異なる人々を単一の存在へと混ぜ込んで融合させる (conflating all persons into one) のである。ある人々に生じる損失を別のある人々の利得で埋め合わせることは、人々の複数性や別個独立性を毀つことに他ならない。

ロールズは、我々の本性が、相互に異なる存在の間で損得を差し引き計算することを認めないような正義の感覚を有していると言う。だとすれば、我々の本性を否定するような概念構成が我々から忠誠を勝ち取ることはできないだろう。「功利主義は、我々の本性を誤解し、我々を何よりも欲望の充足に関心を有する生き物とみなし、自由および平等がどれほど重要かを理解しないために、それは、実行不能の道徳的概念構成なのである。*7

では、ロールズの言う正義はいかにして導かれるのだろうか。

公正としての正義 —自由、平等、公正

前述の通り、ロールズは正義が社会的効用や効率性に隷属することを認めなかった。利益と不利益の差引残高を基準とする限り、奴隷制が常に不正であると言うことはできない。ロールズは正義がそのような功利計算によって揺れ動くものではないと信じていた*8

社会契約説

だが、そもそも近代憲法はロックやルソーの社会契約説を根拠に種々の自由権や平等権といった権利概念を正当化してきたはずである。すなわち、国家が成立する以前の原始的状態において対等な諸個人が相互利益のために自発的な契約を結んで政府を作り、かかる契約において諸個人は相互の人権を保障する、というものである*9。だがこのような契約モデルは十八世紀に「現在ある国家は僭主と征服によって成立したのであって、社会契約は、少なくとも現在の国家の基礎ではない*10」という批判を受ける。同時に科学と経済の発展に伴った実証主義の潮流もあり、社会契約説は徐々にその説得力を失っていった。それに取って代わり、功利主義が十九世紀以降の政治思想を長らく支配し続けることになったのである*11

功利主義が隆盛を極める中で憲法の理念はその基盤を失っていった。すでに述べたように、社会効用を根拠とする限り諸々の人権が常に保障されるとは限らない*12。功利主義は経験的に受け入れやすいため社会の行動原理としても説得力を持っているが*13、憲法の理念群に説得的な根拠を提供するものではない。

ロールズはこのような功利主義の支配的状況に抗し、自由や平等に確固とした体系的な倫理基盤を提供しようと試みる。彼が用いた方法とは、ある興味深い仕掛けを施すことで、社会契約論のアプローチを現代に蘇らせるというものだった。当時の多くの政治理論家にとって契約論はホッブズ、ロック、ルソーのような大昔の思想家のものとしてとらえられていたため、かかる試みはまさに青天の霹靂であった*14

伝統的な正義観は複数あるが、この〔功利主義に取って代わるべき〕正義の構想こそが、正義/不正義を見分ける私たちのしっかりした判断に一番近似しており、デモクラシーの〔精神と制度を兼備した〕社会の道徳的基盤として最もさわしいものとなる。

ロールズ 『正義論』 序文*15

原初状態 —公正な契約とは何か

そもそも、契約における人々の立場や知識、交渉力は常に同じであるとは限らない。不当契約という言葉それ自体、あるいはそれを罰する法律の数々を考えてみればわかるように、契約それ自体が常に公正である保証はない。裏を返せば、我々は何らかの形で公正な契約という観念を持っているということでもある。

では、真に公正な契約とはどのようにして達成されるのだろうか。ロールズはここに〈無知のヴェール〉 (veil of ignorance) という特徴的な仮定を導入する。我々はこのヴェールによって自己に対する様々な情報を遮断され、〈原初状態〉 (original position) に配置される。ロールズはこの仕掛けによって社会契約説の抽象度を高め、真に公正な契約を執り行うのである。

当事者たちはある種の特定の事実を知らないと想定されている。第一に、自分の社会的地位、階級もしくは社会的身分を誰も知らない。また、生来の資産や才能の分配・分布における自らの運、すなわち自らの知力および体力などについて知るものはいない。また、当人の善の構想、すなわち自分の人生の合理的な人生計画の詳細を誰も知らず、リスクを回避したがるのか楽観的なのか悲観的なのかといった、自らの心理に関する特徴すら誰も知らない。これに加えて、当事者たちは自分たちの社会に特有の情況を知らない。すなわち、その社会の経済的もしくは政治的状況や、その社会がこれまでに達成できている文明や文化のレベルを彼らは知らない。原初状態の人びとは、自分たちが属しているのはどの世代であるかについて、どのような情報も有してはいない。

ロールズ 『正義論』 第三章 原初状態*16

当事者たちは自己に関するあらゆる情報を遮断される一方で、社会の基本構造 (basic structure) に影響するあらゆる一般的な心理、社会諸科学的な事実は知っているとされる。たとえば、自分がどのような場所に生きてどのような能力や信条を持っているかは知らないが、自分が何らかの自己実現を願うだろうということは知っている。あるいは、自分の性同一性を知ることはできないが、他者に自分の尊厳を踏みにじられることを好まないという心理的事実は知っている。原初状態の当事者たちは、いわば複雑な記憶喪失状態に置かれるのである。

我々が社会の基礎構造を決定する際に生じる自由、平等、幸福を巡る議論はほとんどの場合一致しない。それは各人が何を善き生とするかに関わる構想や様々な宗教的価値観、願望、社会的立場がいつも異なっているからである。原初状態は各人からこれらの情報をすべて遮断することで、そうした不一致を解消する。

いかなる動機から、何を目的とするのか

では、原初状態に配置された当事者たちはいかなる動機で何を追求するのか。

当事者たちは無知のヴェールによって個別の願望の一切を知らない。すると彼らは特定個人(あるいは特定共同体)としての目的のためではなく、自分がたとえ何者であったとしても持つに違いないような願望の観点から社会の基本構造を決定するようになる。そのような願望の対象は一般的願望、あるいは社会的基本財 (the social primary goods) と呼ばれる。これは、どのような目的を持つにせよ必要とされるいくつかの条件、たとえば憲法における自由権のような一定の権利や機会、所得、余暇、自尊心といったものを指す。これらの分配、制度配置を、当事者たちは合理的な利害関心に基づいて決定することになる。我々は、切り分けたケーキをそれぞれ誰が受け取るのかわからなければ、おそらく公平にケーキを切り分けるだろう。こうして、原初状態における決定は、現実におけるそれよりもむしろより強い道徳的な力を持つようになる。

なぜ原初状態の当事者たちは自己利益に基づいて決定することが合理的なのか

種々の心理、道徳理論によって精緻な論証を経て、各当事者は〈自己の利害関心〉に基づいて選択することが最も合理的であるという結論に至る*17。このように述べることはある疑問を喚起するかもしれない。すなわち「原初状態の当事者たちは自己の利害関心のために判断することが合理的だと言うが、強い厚意、情操的な絆、人類愛を持つ人は、たとえ一定程度自己を犠牲にしてでも、他者や共同体の利益を主張するのではないか」と。

しかし、原初状態の当事者たちがそう考えることは全く合理的ではない。たしかに我々は恋人、家族、コミュニティ等への強い愛着を持ち、時として自己を犠牲にしてでも他者の利益を願う。だが我々が持つこのような性質は、パラドキシカルなことに、原初状態の当事者たちが常に自己利益のために判断することと全く矛盾しない。

おそらく最も簡潔な説明は以下のようになる。すなわち、原初状態の当事者たちは恋人や家族、あるいはコミュニティの成員といった自分が愛する存在そのものなのである。原初状態の当事者たちは自分が何者かを知らないと同時に何者でもありうる。当事者たちは無知のヴェールを外されたその瞬間に〈自分自身が、自分が犠牲になってでも貢献したい相手そのものである〉可能性を考えなければならない。いわば、無知のヴェールの内側に入った当事者たちは、強い愛着を持つ対象すべてに自己を分裂させるのである*18。これにより、原初状態の当事者たちは自己利益を考えることによってこそ、最も広範な人々の利益を考えていることになる。

「同じ事が逆の立場でも言えるか」という反転可能性を考慮することは、おそらく我々が持つ正義感覚の中でも非常に肝要な部分である。そして、無知のヴェールという仕掛けは利害両面において究極の反転可能性を実現する。原初状態の当事者たちはすべての人々の代表者であるとともに、すべての人々そのものとして利害を調整するのである。

正義の二原理

では、原初状態において採択される原理とは何であろうか。それは、公正としての正義を満たす以下の二原理であるという。

第一原理

各人は、平等な基本的諸自由の最も広範な全システムに対する対等な権利を保持すべきである。ただし最も広範な全システムといっても〔無制限なものでははなく〕すべての人の自由の同様〔に広範〕な体系と両立可能なものでなければならない。

第二原理

社会的、経済的不平等は、次の二条件を充たすように編成されなければならない。

  1. そうした不平等が、正義にかなった貯蓄原理と首尾一貫しつつ、最も不遇な人びとの最大の便益に資するように。格差原理(引用者註)〕
  2. 公正な機会均等の諸条件のもとで、全員に開かれている職務と地位に付帯する〔ものだけに不平等がとどまる〕ように。公正な機会均等の原理(引用者註)〕

ロールズ 『正義論』 第五章 分配上の取り分*19

この正義の二原理のうち、辞書的定義として第一原理は第二原理に優先する。そして第二原理の中ではbの公正な機会均等の原理がaの格差原理に優先する*20

以下、このような原理が選ばれる理由について検討する。

正義の第一原理の採択まで

まず当事者たちは自分が誰かもわからないわけであるから、互いの間に不合理なパワーゲームが生じる余地はない。彼らは全員が他者の同様の自由と首尾一貫するような最大限平等な自由を認めるところで一致し、相互に平等な人格として互いを尊重することに合意する(これが必ずしもエゴイスティックな人間観に基づかないことはすでに述べた通りである)。すなわち、対等な基本的権利を放棄しないという原理が第一に採択される。

正義の第二原理の採択まで

上のような事実から、基本的には平等主義的な傾向で議論が進む〔公正な機会均等の原理〕。続いて、どこでその平等観から離れるかが焦点となる。当事者たちが基本財をより多く手に入れることを望んでいることから、彼らは完全な平等主義を否定して次のように考えるであろう。すなわち、何らかの不平等が存在することですべての人の状況が改善されるのであれば、不平等は存在するべきであると。これによって完全な平等主義、つまりあらゆる基本財が常に平等に配置されるような分配の仕方は棄却される〔格差原理〕。

これらは原初状態という、合理性と基本的な心理法則に則った原理選択を促進するモデルにおいて、心理学、経済学、社会学、政治学の一般的知識がもたらす必然的帰結であるとロールズは論証する。

かかる論証からなぜ他の伝統的な原理、特に功利主義ではなく正義の二原理が選ばれるのかについて、少し詳しく説明する。大きくは以下の三要素がその要旨となる*21

  1. 原初状態の当事者たちは、他者の功利や善が自らの功利や善を犠牲にする(危険がある)ような原理を選ばない。そのような原理が作り出す制度は人間の心理的本性を超えてしまう。すべての人は自らの善が肯定される制度配置を選択する。
  2. 選択される制度はそれ自体への支持を生み出す概念構成でなければ選好されない。それ自体が人々に支持されない制度は安定的でなく、正義の原理として適切ではない。
  3. 正義の原理は(基本財でもある)人々の尊厳を確保するものでなければならない。

詳述する。

1. 我々は他者の功利や善のために自らの善や功利を犠牲に晒すことを原理としては採択しない

他人や国家の最大功利のために自己を犠牲に晒すような概念構成が正義の原理として採択されることは、人々が心理的に許容不可能と思われる制度配置をもたらす。この理由から、功利主義は選ばれない。

同様に特定の善の完成にむけて人々を強制する卓越主義*22も選ばれない。原初状態の当事者たちは各人の持つ特定の善の構想を知らないのだから、ある善によって別の善が妨げられるような原理を選択しない。たとえば特定の宗教を弾圧してキリスト教の教義を義務教育に盛り込みそれを強制したり、国家のために滅私奉公の努力を強制したりといったものを認めない。

これに対し、すべての善の構想を肯定するような包括的な正義原理として、正義の二原理が採択される*23

2. 制度はそれ自体が道徳心理上の支持を得なければならない

人は自分の善を肯定するものを愛し、慈しみ、支持するという心理法則を持つ。しかし功利主義は他者や他者集団の利益を自分のものとして同一視することを強制し、それらのために犠牲になることを要請する。我々が功利主義を正義の原理として全面的に受け入れることがいかに困難かはここまで述べてきた通りである。人間の道徳心理学上の事実からして功利主義原理を正義原理そのものとして支持することはそもそも不可能であり、ゆえに安定的な原理とはなりえない。この理由からも、功利主義は選ばれない。

これに対し、正義の二原理はすべての人の善を肯定し各人の様々な自由を保障するようなシステムであるから、相互に信頼できる安定した原理として人々に受容され続けることが可能である。人々が自分の善を肯定するものを支持する傾向は、そのまま正義の二原理の支持に向けられる。

3. 正義の原理は人々の尊厳を確保するものでなければならない

一般的な心理法則として、人が尊厳をことごとく失って生きることは非常に困難である。しかし功利主義はあまり幸運ではない人々が他者のためにさらに低劣な人生の見通しを受け入れることを要請する。社会の功利を最大化することに資さない人々は自尊を踏みにじられ、自分に価値があるとする感覚を減退させられる*24。原初状態の人々は自己が社会の功利に資するかどうかを判断することができないので、そのような状況を生み出す原理を選択しない。この理由からも、功利主義が選ばれることはない。

これに対し、正義の二原理は各人の善の構想を互恵性の枠組みに組み込み、各人の善の取り組みを相互に尊重させる制度配置を作り出す。平等な自由の確立と格差原理の実施は自分や誰かが不当に搾取されているという感覚を心理的にも実際的にも取り除く。たとえ最も恵まれない境遇にある者であっても、格差を含む社会制度すべてが自らを含む社会の成員すべてに資するものとして設計されている、と考えられるようになる。これにより他者への妬みや侮蔑、自己卑下を無くし、相互の奮闘努力が相互に尊重されるような敬意を人々の間に涵養することができる。つまり、正義の二原理は互いが互いの自己尊重を支えることを可能にするシステムである。

格差原理への疑問 —才能、努力

さて、公正としての正義において最も多くの論争を惹起するのは第二原理の (a) 格差原理であろう。たとえば才能に恵まれてより多くの富を生み出せる人々が、なぜ不遇な人々に資する形でしか格差を作ってはいけないのだろうか。格差原理の背景にあるロールズの考えはこうである。

まず我々は封建制度やカースト制度が生まれという恣意に基づく不公正な階級制度であることを知っている。そういった恣意性に基づいて富や権力が分配されることを、人類の歴史は否定してきた。では実力主義的な、すなわち才能や努力が生み出す実力に対して機会均等を保障し、その能力の対価としてなされるような分配は公正だろうか。おそらく現代に生きる人々の多くはこれを公正だと考える。その社会に資する能力を持った人間には、生まれによる身分などで差別されることなく、相応の対価が支払われる。これこそが公正なシステムというものではないか、と。しかし、ロールズによればこれもまた恣意的要因に基づいており、公正な分配ではないという。これは一体どういうことだろうか*25

「実力」は自然の恣意性を免れない

結論から述べよう。ロールズによれば、そうした「実力」にあたるものは結局自然の偶発性に強く影響されており、「実力」に莫大な影響をもたらす生来の才能や能力、生育環境の分配は、道徳的見地からすれば全く独断的、専横的なものでしかないのである*26。タイガー・ウッズやスティーブ・ジョブズの類い希な才能は、彼ら自身の道徳的功績によるものではない。あるいは、オードリー・ヘプバーンの端麗な容姿は、彼女自身の道徳的功績によるものではない。

ここで「彼らの才能や彼女の容姿は道徳的功績である。そして生来の才能に基づいた分配は道徳的に正しい」と述べることは、封建制度やカースト制度を肯定するロジックと何ら変わりがない。すなわち我々が「ある人の才能はその人に対して道徳的に値する」と考えることは、封建制における貴族が「私は貴族であるに値するし、彼は奴隷であるに値する」と考えることと同様である*27

「努力」という観点からの反論

このような言明はただちに強烈な反論を生む。驚くべき成功を成し遂げたスポーツ選手や実業家、俳優たちは、そこで要求される様々な能力を錬磨するために血のにじむような努力をしてきただろう。社会はその努力に報いるべきではないか、と。

しかし、そのような努力でさえ自然の恣意性に束縛されている。努力を促すような気質を育てた環境も、そのインセンティブを作った状況も、単なる偶然に強く影響されることは否定のしようがない*28

自由主義的な実力主義と努力主義は結びつかない

そもそも努力を根拠にして実力主義的な制度を肯定することはできない。たとえば日本の大学入試システムは出身地や容姿による不当な差別を許さない、平等に開かれた実力主義システムの一形態である。同時に東大生の親の六割が年収一千万円クラスであること、逆に年収が四五〇万円未満の親を持つ東大生が一割しかいないことも事実である*29。同等の努力が同等の結果を保証しないことは言うまでも無い。

しかし、このような状況が明らかであるとしても、各人の努力によって点数に傾斜をかけるような発想は、実力主義の観点からは導き出されない。非常に不利な生育環境で多大な努力を投じた受験生は、裕福な環境でそこそこの努力を投じた受験生よりも点数が上乗せされるべきだと考える人は、実力主義者の中には存在しない*30。かくして、実力主義と努力主義の間には根源的かつ必然的な結びつきが無いことがわかる。少なくとも、実力主義社会に努力それ自体へ報いるシステムは組み込まれない*31

自然の恣意性を無条件に肯定するべき道徳的理由は無い

このようにみていくと、自然の恣意性はどうしようもなく絶対的な事実であって、その適切な扱いを考えることを諦めたくなるかもしれない。かといって、道徳的な正義の原理を考える上で自然の恣意をそのまま放置すべき理由はどこにも無い。東京で裕福な家庭に生まれた子どもが沖縄で貧しい家庭に生まれた子どもよりも遥かに良い教育を受け、将来の展望が格段に明るいという事実が仮にあったとしても、我々はそれが各人の道徳的功績に報いた格差だとは思っていない。

では、どうすれば良いのか

ロールズからすれば、実力主義に基づいた分配は、生まれ持った才能、生まれた場所、生まれた時代、偶然得た生育環境といった、道徳的観点からはまるで根拠の無い先行分布がもたらす累積的効果を評価しているに過ぎないという*32

では、ロールズは極端な平等主義的指向を持っており、かかる不正義な分配はすべてが矯正されるべきだと考えているのだろうか。格差原理をみれば全くそうではないとわかる。ロールズは、自然的な運不運が生活上得る富や権力にもたらす違いを、全く均等にならすべきだと主張しているのではない。そういった違いは、格差原理によって道徳的に正当化されるのである。社会の最も不遇な人々の便益を最大化するような制度である限り、理論上は天と地ほどの格差も正当化される。ロールズは以下のようにはっきりと述べている。

より卓越した生来の能力を持つに値する者は誰一人いないし、より恵まれた社会生活のスタート地点を占めるに値する者もいない。だがもちろん、このことがそうした〔生来の能力や社会生活のスタート地点の優劣の〕諸区別を無視したり(ましてや)廃絶したりする理由になるわけではない。諸区別を無視・廃絶するのではなく、そのような偶発性が最も不遇な人びとのために機能するよう基礎構造を編成することができる。

ロールズ 『正義論』 第二章 正義の諸原理*33

そしてまさにこれを理由として、原初状態では格差原理が採択されると言う。原初状態の当事者たちは、ある意味で〈互いの資質や運を共有財産とみなして分かち合う〉ような制度を採択するのである。

格差原理が採択される理由については前述した「3. 正義の原理は人々の尊厳を確保するものでなければならない」の項も重要な説得力を提供する。格差原理は不遇な者への同情心などから採択されるものではなく、自分を含めた全員の自尊を確実なものとするために最も合理的であるがゆえに採択されるのである*34

正義の二原理が保障する理念とまとめ

格差原理はあたかも奇抜で具体例を想像することさえ困難な理論にみえるかもしれない。だが、そうではない。格差原理はありふれた友愛の原理を制度的に再解釈したものである。ロールズは友愛の理念が実現されやすい集団として家族を例にあげている。

家族は(その理想的な構想においてのみならず、しばしば実際上も)相対的利益の総和を最大化する原理が受け入れられない場所のひとつである。家族の成員は、残りのメンバーの利益を増進しつつ自らの利益も手に入れることができなければ、自分だけ得をしたいとは望まない。〔……〕格差原理に基づいて行為したいと願うことは、まさしくこれと同じ帰結をもたらす。より恵まれた情況にある人びとは、相対的に不運な人びとの便益を実現してくれるような枠組みにおいてのみ、自分たちの相対的利益の拡大を進んで意欲する。

ロールズ 『正義論』 第二章 正義の諸原理*35

もちろん、友愛という理念は情操的、感情的な絆を欠いて実現するものではない。今日のように複雑で寥廓とした社会の成員が制度的な後ろ盾も無くそうした絆を持ち続けるという期待は現実離れしているように思える。

だがロールズによれば、まさに格差原理こそがかかる制度的後ろ盾を提供するのだという。格差原理は、我々が生きる社会の制度や政策が許容するあらゆる不平等に対し、それが最も不遇な人々にさえ寄与するという道徳的な正当化を与える。我々はそのような情況に置かれることで、そうでない場合に抱きがちな嫉みや警戒心、屈辱の感情が格段に取り除かれる*36

また、原初状態の当事者たちは相互尊重の重要性を知っている。彼らが基本財として求める自尊感情は、他の人々からの無関心や軽蔑によって著しく毀損されることを知っているからである。すでに言及したように、当事者たちにとっては相互尊重の義務を受け入れることが最も合理的である*37

これらを踏まえてまとめに入ろう。

まとめ

主に功利主義との違いを焦点にまとめる。

まず全体効用の最大化を目指す功利主義が陥りがちな不当な搾取は正義の二原理によって棄却される。そして格差原理は功利主義原理に比べて友愛の理念をより強力に推し進め、相互尊重の義務は各人の安心や安全をより強く保障する。

正義の二原理では、自由の理念が第一原理に、平等の理念は第一原理と第二原理の機会均等に、そして友愛の理念が格差原理に対応する形でデモクラティックな三原理を実現する。

正義の原理と価値

ロールズは基本的自由の尊重や機会均等の原理、そして格差原理のもたらす相互尊重の義務と相互扶助的性質を、単なる保険制度的なものではなく、人々の価値観を根本的に変革するような基底的制度としてとらえているという事実は、最後に言及しておく価値がある。

〈私たちが困難な情況下にあるときには他の人びとが援助しに来てくれることを当てにできる社会に、一緒に暮らしているのだ〉という公共的な理解それ自体に、大きな価値がある。〔……〕この原理〔=相互尊重、扶助の義務(引用者註)〕の主な価値は私たちが実際に得る援助によって測られるのではない。それは、他の人間の善意に対する信頼と信用の感覚と、私たちが必要とするならば彼らはそこにいてくれるのだという理解とによって、測られる。実際のところ、この義務が拒絶されていることが公共的に知られているような社会が一体どれほど生きづらいものであるかを、想像するだけで足りる。

ロールズ 『正義論』 第六章 義務と責務*38

正義の二原理がどれほどの実現性を持つかはまだわからない。しかし集団の最大効用を目的とする効用原理が我々の持つ道徳感情をとらえ損ね、また人々の相互尊重をしばしば減退させてきたことは確かである。

かかる原理を乗り越えた社会を実現することを試み、分配的正義と公正に着目したロールズの論法は、強い説得力を持っている。

  • 文献目録
  • *1: cf. 〔川本 2005: 29-37〕
  • *2: これらが市場経済や功利主義の枠内で関心を持たれるとしても、それは誰かの選好を満たすとか、全体の幸福を増大させるとかいう理由を持った場合に限られる。限界効用逓減法則を理由にした平等指向の再分配においても、それが効用限界の結果としてなされるという点で同様である。
  • *3: 〔ロールズ 2010: 31ff.〕 以下、「〔ロールズ 2010〕」を略号「〔TJ〕」を用いて表記する。
  • *4: 〔TJ 6〕
  • *5: 各人がこのような選択原理をとることに説得力があるからこそ、「彼はなぜあれほどまでに利他的に行動するのか」という疑問に対し「それが結局は彼自身に利得をもたらしているのだ」と答えることに多くの人が納得する。(もっとも、近年の動物行動学の知見はこうした説明よりも興味深い言説を提示している。)
  • *6: 〔TJ 34〕
  • *7: 〔クカサス 1996: 86〕
  • *8: このような目的に従属しない道徳性という考え方はカントの義務論に基づいている。
  • *9: cf. 〔ルソー 1954; ロック 2010〕
  • *10: cf. 〔ヒューム 1952〕 「原始契約について」
  • *11: cf. 〔TJ xii〕 倫理学史的な異論はありうるが、少なくともロールズの理解ではこうである。
  • *12: アメリカや日本に限らず人権を社会的効用の従属的なものだと考える人々は今でも多いと思われる。
  • *13: cf. 〔TJ 32〕
  • *14: cf. 〔クカサス 1996: 26〕
  • *15: 〔TJ xxii〕
  • *16: 〔TJ 184-185〕
  • *17: cf. 〔TJ ch. 3〕
  • *18: cf. 〔TJ 258-259〕
  • *19: 〔TJ 402-403〕
  • *20: ロールズは正義の二原理について何度か修正を加えているが、『正義論 改訂版』では第二原理の中での優先順位が記述順と倒置されている。アダム・スウィフトは「かなり苛立たしい。おそらく、彼は、読者を油断させたくなかったのだろう。」と述べている〔スウィフト 2011: 39〕。なお、Political Liberalismにおいては優先順位と記述順が一致している。“Social and economic inequalities are to satisfy two conditions: first, they are to be attached positions and offices open to all under conditions of fair equality of opportunity; and second, they are to be to the greatest benefit of the least advantaged members of society.”〔Rawls 1995: 5-6〕
  • *21: cf. 〔クカサス 1996: 66ff.〕
  • *22: 卓越主義についてはのちに詳述する。
  • *23: これは正義の原理が特定の善に対して優先することを意味する(正義の善に対する優先性)。
  • *24: cf. 〔TJ 245〕 これは現代において現実に生じ続けている問題である。
  • *25: cf. 〔TJ 98〕
  • *26: cf. 〔TJ 98; 137〕
  • *27: また、何がその社会にとって貢献的な能力であるかも完全に恣意的である。筋萎縮性側索硬化症 (ALS) に罹患し車椅子生活を送りながらも卓越した物理学研究を続けたスティーヴン・ホーキングが全く別の時代、別の文化環境においても同じようにその能力を発揮できた保証は無い。
  • *28: 〔苅谷 2001〕 より多くの努力を成し遂げようとする性向が環境に左右されることは統計的に証明されている。
  • *29: 東京大学学内広報 第2部 学生生活の背景 http://www.u-tokyo.ac.jp/gen03/kouhou/1366/6.html (2012年2月10日閲覧)
  • *30: そして徹底的な努力主義に基づくのであれば、今度は純粋努力の測定という難問にぶつかることになる。
  • *31: あたかも努力それ自体に社会が報いているように偽装した言説は多いが、具体的な例を出すまでもなく、そのような事実が無いことは自明であろう。また実力主義的な社会において、人が進んでやりたがらない重労働に必ず高い報酬が支払われるという事実も無い。
  • *32: cf. 〔TJ 97-98〕
  • *33: 〔TJ 137〕
  • *34: cf. 〔TJ 243〕
  • *35: 〔TJ 142〕
  • *36: cf. 〔TJ 704-705〕
  • *37: cf. 〔TJ 446-447〕
  • *38: 〔TJ 448〕
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