正義という言葉について

正義、正しさとは一体何だろうか。

はじめに

多くの人々は正義という言葉に一定の不信感を抱いている。事実、いつの時代においても正義を標榜した啓蒙の炎は人々を焼き払い、正義を掲げた大国は今なお戦争を続けている。正義、正しさとは一体何だろうか。

力と勝利こそが正義だと言う人もいる。その一方で我々は「力や勝利の不正義」を言明することがある。

ルールで決まっていることが正しいのだと言う人もいる。しかし我々は「そのルールは正しくない」と言明することがある。

普遍的な正義や答えは無いと言う人もいる。そのような人でさえも「不正」への憤りは隠さない。

ポストモダンの論客はすべてを脱構築し無力化する。しかしデリダでさえ「法は脱構築可能だが、正義は脱構築不能である*1」と言う。

我々はある場面において正しいと考えたことが、また別の場面では受け入れがたい選択をしてしまうというような道徳的混乱に陥ることがある。我々は自分の持っていた正義観に次々と例外を付け足し、そうした混乱を繰り返す中で普遍的な原理の存在を否定したくなる。

しかし、「何事にも例外がある」という命題の自己論駁性に賭けることもできる*2。我々の持つ正義の感覚は、何らかの形で普遍化できるかもしれない。

社会正義、不一致、妥当性

我々と我々の社会はどうあるべきで、何を為すべきなのだろうか。法は何を裁くのか。財は再分配されるべきなのか。国家は必要なのか。何が正しく、何が不正で、何が善く、何が悪いことなのか。いまだその決定的な回答は定まっていない。

二〇〇〇年前、アリストテレスは最高善の追求を人類の目的とした。二〇〇年前、ベンサムは最大功利の追求を社会の答えとした。二〇世紀、ロールズは公正としての正義を主張した。ノージックは権原としての正義を、サンデルは共通善の政治を、センは福祉と自由を討究している。

確かに、かかる賢明な論者たちの奮闘にも関わらず、自由や幸福、正義という曖昧な言葉の解釈にはいつも深刻な不一致が潜んでいる。しかし深刻な不一致が存在するという事実は、妥当な答えが存在しないということを意味するものではない。人々の価値観が異なるという事実は、全くあらゆる価値観が異なるということを意味するものでもない。倫理学や政治哲学は、その妥当な解釈を、諦めてはいないのである。

  • 文献目録
  • *1: cf. 〔デリダ 1999〕
  • *2: cf. 〔井上 2003: 265〕 「何事にも例外がある」という命題が真に正しければ、かかる命題にも例外があるということを意味する。
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