ベンサムの功利主義

一千人の貴族のために一〇万人が犠牲にされることは道徳的に正しいだろうか?

いや、正しくない。それは〈最大多数の最大幸福〉に反している。

正義とは、幸福の総和を最大化することである。

ベンサム〈最大多数の最大幸福〉

ジェレミイ・ベンサム (Jeremy Bentham) は一七四八年ロンドンの中流階級に生まれた。少年時代の彼は肉体的にもひ弱で神経質だった。運動よりも植物採集を好み、魚釣りや狩猟は動物に残酷だからという理由で好まなかった。

彼が生きた時代のイギリスは権力と恣意による腐敗の極みにあった。議会における二大政党の下院はいずれも貴族、大地主、大商人に占められ、有権者自体も全人口の三パーセントに過ぎなかった。選挙区は政治家の間で売買され、投票にも買収が横行した。法廷では自然法や慣習法という名の下に理不尽がまかり通り、貴族が狩猟のために人を殺傷しても罰せられない一方、貧しい人々が生活のために行う盗みは死刑に処されるのが日常だった*1

ベンサムは少数権力者の専制を打倒し、社会全体の最大多数を幸福に導く理論を考える。彼は晩年「圧倒的な善を生み出すことなしに、意識的に苦痛を、どのような存在に対してであれつくりだすような行為は、残酷な行為である*2」と語っているが、まさしくこれを体現したものが功利主義原理である。

功利主義 —道徳の科学

われわれが何をしなければならないかということを指示し、またわれわれが何をするであろうかということを決定するのは、ただ苦痛と快楽だけである。〔……〕

このような原理を疑おうとするもろもろの思想体系は、意味のかわりに空言を、理性のかわりに気まぐれを、光明のかわりに暗黒を取り扱っているのである。

しかしたとえや熱弁はもうたくさんだ。道徳科学はそのような手段によって改善されるのではない。

ベンサム 『道徳および立法の諸原理序説』 第一章 功利性の原理について*3

功利主義*4とは、社会に属する個人の功利を量的に加算し、その総和の最大化を目的とする思想である。功利とは利益、快楽、善、幸福を指し*5、ベンサムはこれらのすべてが客観的な量に換算できるとする。そして一個人のすべての行動から政府のすべての政策に至るまで、その一切はかかる功利を追求することが道徳的に正しいとされる。古典的功利主義は現在に至るまで非常に影響力を持った思想であり、これを欠いて倫理学を考えることはできないと言ってよい。

功利主義原理は以下の三因子*6から構成される。

帰結主義

行為や制度の真価はそれがもたらす結果から判断される。

効用主義

帰結の善し悪しは関係者の主観的快の増加関数で判断される。

総和主義

関係者の効用は足し算され、帰結の善し悪しはその合計値で判断される。

彼はなぜ寄付をするのか? 功利主義的な説明をするならば、それは寄付によって得られる効用が金銭的な苦を上回るからである。修行僧はなぜ無益にみえる苦しみを自ら受け入れるのか? それは苦しみを受け入れることで得られる満足が苦しみよりも大きいからである。我々はなぜ経済成長していかなければならないのか? それは社会全体の効用総和を増大させるためである*7。いずれも、我々の基本的な行動原理をうまく説明しているようにみえる。事実、功利主義は現代社会のあらゆる場面で規範的な地位を保っている。

その一方で、倫理思想としての古典的功利主義が四方八方からの難詰を浴び続けてきたのも実情である。マルクスはベンサムを「俗物の元祖」とみなし、ケインズは「現在の道徳的頽廃を産みつつある害虫」とまで冷評した*8。では、功利主義の一体何が問題だと言うのだろうか。

功利主義の理論的問題

功利主義の理論的な問題として代表的なものを検討する。

効用の測定と個人間比較の問題

諸個人の幸福を量的に計算することが果たして可能だろうか。また、彼がチェスから得る幸福と彼女が音楽から得る幸福は本当に比較衡量できるのだろうか。

自己の幸福と社会の幸福を結びつけることの問題

社会はたしかに個人の集合であるかもしれないが、だからといって個人にとっての望ましさと社会にとっての望ましさが常に一致することはありえない。個人が自己犠牲的に社会全体の幸福を追求することが長期的帰結として社会全体の功利をより増大させるとしても、個人の功利は社会のそれと矛盾しうる。

自由との不整合

ベンサムは幸福が快苦から客観的に計算できるものとし、その総和の最大化を社会の最大目標とする。仮に幸福が客観的に計算可能だとすれば各人の主観は幸福の測定にあたって無意味なものとなる。そして社会は幸福の総和最大化を目指すわけであるから、結果として幸福計算に長けた人物があらゆる人間の人生を規定していけば良いことになる。すると個人の自由はどうなるのだろうか。

自然主義的誤謬

ベンサムは「人間が快楽を求めるという性質的な事実」を「人間は快楽を求めることが善であり快楽を求めるべきだ」という当為に飛躍させている。これは事実命題と規範命題の峻別問題(ヒュームの法則)にあたる。たとえば「人間は過ちを犯す」という事実は「人間は過ちを犯すべきだ」という規範を導くものではない。(これには異論もある*9。)

「帰結」と「全体」の困難

功利主義は何事であれ結果的な全体功利の差引残高が最大化される選択を要請する。だが「帰結」や「全体」とは一体何を指すのだろうか。マイケル・サンデルがハーバードの講義でも扱った有名な事例を一つ引いてみよう*10

二〇〇五年アフガニスタン、米海軍特殊部隊のラトレル二等兵曹は同部隊の三人の戦友と共に偵察作戦を行っていた。任務はタリバン指導者の捜索である。情報によれぱ目標とする人物は一五〇人ほどの重武装した兵士を率いて山岳地帯の村にいるとのことだった。彼らは山の尾根でヤギを連れた二人のアフガニスタン農夫と十四歳くらいの少年に出くわした。米兵たちは彼らに銃を向け地面に座らせ、どうすべきかを話し合った。ヤギ飼いたちは非武装の民間人のようであったが、もし解放すればタリバンに米兵の存在を知らせてしまう危険性があった。四人の米兵はロープも持っておらず、彼らを殺すか解放するかという二択を迫られる。

一人は「我々は敵陣に潜んで作戦を遂行中だ。軍人として何をすべきかは明らかだ」と言った。ラトレルは回想記で次のように綴っている。「どう考えてもヤギ飼いを解放するわけにはいかなかった。しかし困ったことに私にはキリスト教徒としての心があった。非武装の民間人を冷酷に殺すことは間違っていると、何かが心の奥でささやき続けた。」

結局、ラトレルの良心はヤギ飼いたちを殺すことを許さなかった。一人が棄権した投票の結果、ラトレルの一票が決定票となりヤギ飼いたちは解放された。ヤギ飼いたちを解放した一時間半後、四人の兵士は一〇〇人ほどの武装したタリバン兵に包囲されていることに気づく。銃撃戦の後、ラトレルを除く三人の戦友は全員戦死した。ラトレルたちのチームを救出しようとしたヘリコプターも撃墜され、救出チームの十六人も全員が命を落とした。ラトレルだけが重傷を負いながらかろうじて生き延びた。彼は当時を振り返り「これまでの人生において、最も愚かで、馬鹿馬鹿しく、間の抜けた判断だった」と言う。

この話はしばしば米軍兵士たちの視点からジレンマとして語られる。しかしここではもう一歩話を進める。仮にラトレルたちが賢明にもヤギ飼いたちを殺し、彼らの作戦が万事問題無く遂行された場合はどうなったのだろうか。おそらく彼らはタリバンの指導者と一五〇人の重武装した兵士を見つけ出した。そして米軍とタリバンの兵士たちはこの話で行われたよりも大規模な交戦を行い、ことによると民間人を巻き添えにするような空爆作戦を展開したかもしれない。死者は十九人では済まないだろう。この時、米兵全体xとタリバン兵全体y、そしてアフガンの民間人z、いずれの効用総和を計算すれば良いのだろうか。あるいはそこでの戦闘がもたらした全人類の効用をどう計算するのか。

このような効用計算を行うこと自体の妥当性をひとまず置いておくにしても、一つはっきりしていることがある。それは、「帰結」と「全体」を判断することが、我々の世界に対する不可知性からして、非常に困難だということだ。

功利主義の直感的問題

最後に、功利主義原理が導くかもしれないいくつかの道徳判断を直観と照合してみよう。

  • 日本でも行われていたように、娘を人身売買にかけて売り払うことがその家族の幸福総和を増大させる場合、功利主義はこれを肯定する。
  • 人々の一割を奴隷にすることが残りの九割の幸福を増大させ、奴隷が存在しない場合よりも社会全体の幸福が高まる場合、功利主義はこれを肯定する。
  • 少数派の宗教、思想、信念、権利を弾圧することが多数派の快楽を増大させる場合、功利主義はこれを肯定する。
  • 古代ローマのコロッセウムで実際に行われていたように、一人のキリスト教徒をライオンと戦わせることがそれを見物する五万のローマ市民に差し引き十分な快楽をもたらす場合、功利主義はこれを肯定する。
  • あなた一人の命が二人以上の命を救えるならば、あなたは常に命を提供するべきである。(臓器くじ〔survival lottery*11

こういった事例で功利主義の道徳判断をみていった時、我々はそこにある種の罪悪感や困惑のようなものを感じる。

しかし冷静な功利主義者はこういった感覚を「計算のできない未熟者が起こす混乱」としてとらえるだろう。あるいは、上述した例を功利主義的観点から否定するかもしれない。最後の例で言えば「人々の命を強制的に奪うような政策は甚大な社会不安をもたらし結果として社会全体の功利を損なうので認められない」というような反駁を行うかもしれない。また別の功利主義者は、ある時には快楽の質や未来の不確実性を用いて、またある時にはそれらを排除することで「真の効用」を発見したと主張するかもしれない。彼らはしばしば我々の道徳的直観に整合するように変数を設定し、計算し直してくれる。

だがそうした変数設定に恣意性は無いのだろうか。そもそも、かかる功利計算は我々の道徳観念を真にとらえているのだろうか。功利計算に生じる困惑、あるいはそれを感じる正義感のようなものは、本当に単なる混乱や錯覚でしかないのだろうか。

ベンサム*12の『道徳および立法の諸原理序説』が世に出てから約二〇〇年後、ロールズの『正義論』は功利主義原理の克服を宣言する。

  • 文献目録
  • *1: cf. 〔関 1967: 21〕
  • *2: 〔関 1967: 11〕
  • *3: 〔関 1967: 81-82〕
  • *4: ヘアの選好功利主義など、功利主義は現代において様々な修正が試みられている。ここではひとまず古典的功利主義と現代のそれを区別し、前者に限定して話を進める。
  • *5: cf. 〔関 1967: 83〕 ベンサムはこれらはすべて同じものとしている。
  • *6: cf. 〔川本 1995: 15〕
  • *7: もっとも、経済成長が必ずしも幸福水準の上昇を意味しないことは周知の通りである。
  • *8: cf. 〔関 1967: 9〕
  • *9: 功利主義でいうところの功利は「すべての人が望むもの」とされているため、「すべての人が一致して最も強く望んでいるものは、可能な限り実現さるべきである」という性質上拒否できない論理を主張できる。そのため、定義上はこうした自然主義的誤謬を理由にした論難は退けられる、というものである〔井上 1986: 122〕。
  • *10: 〔サンデル 2010: 36-38〕より抄録。
  • *11: cf. 〔加藤 1997: 28ff.〕
  • *12: 少しベンサムについて弁護しておこうと思う。上で見たようにベンサムの生きた時代は少数の人間によって多数の人間が蹂躙されることの多い時代だった。無論このことは功利主義の問題点を打ち消すものではないが、幸福の拡大を試みたベンサムの信念と功利主義の持つ幅広い応答能力はそのすべてが否定されるべきものではないだろう。またベンサム自身は夕食に酒を飲むこともなく、快楽といえばもっぱら本を読み音楽を聴く程度の生活を送っていた。「快楽を善とし、苦痛を悪と主張したベンサムは、他人に苦痛を与えないため召使いをも臨終の部屋に入れなかった」という〔関 1967: 23〕。
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