リベラリズムとは何か

リベラリズムとは何であって、何でないのか。

はじめに

リベラリズムとは何か、という問いに対し「リベラリズムは特定の価値観を強制せず、人々の自由や自律を尊重する思想である」と答えることは、あまり当を得ていないように思われる。ここではリベラリズムに対する疑問ないし誤解についての検討を通してその輪郭を素描することを試みる。なおこれはリベラリズムの積極的な擁護を行っているというよりもその基本的な解釈を目的にしていると理解されたい。

前半ではリベラリズムへのより基本的な疑問について、後半では正義と善の区別と疑問についてを扱う。

基本理解

リベラリズムは個人の自由を至上のものとして尊重し、国家が人々に干渉することを否定し、最小国家を支持しているのか?

いや、違う。この誤解は経済的自由主義、ネオ・リベラリズム、あるいはリバタリアンと政治的なリベラリズムを混同することから生じている*1。政治的なリベラリズムはレッセ・フェールの唱道者ではないし、リベラルな正義を支持して市民の尊厳に配慮することは、いわゆる福祉国家(的な政策)への支持を含みうる。また、リベラリズムは資本主義を支持するとは限らない。

なお、仮にリベラルやリバタリアン、コミュニタリアンが同様の政策を支持するとしても、その根拠は大きく異なっているだろうということには注意されたい。

リベラリズムは個人主義的で、エゴイスティックな思想ではないか?

いや、違う。リベラリズムは個人の利己的な利益が無制限に追求されることを支持しないし、リベラルな個人主義は利己主義とは全く異なる。なぜなら、原理として個人の自由や福祉を重要だとみなすことは、〈全ての個人の自由や福祉を重要だとみなすこと〉に他ならないからである。リベラリズムは全ての人々への配慮と尊重を重要視するために、エゴイズムをむしろ制約する原理である*2

リベラルは権利ばかりを強調し、人々の持つべき義務を見落としているのではないか?

誤解である。リベラリズムの原理は義務や責任の重要性を捨象していない。なぜなら、人々を対等な市民とみなすリベラルの正義に適った権利請求は、自らの請求する権利を他者に対しても同様に守るという義務を含意しているからである。すなわち〈リベラルが行う権利の請求は、常に義務の請求を伴っている〉のであり、互いの持つ権利が増えるほどに互いが負う義務も増えていくのである。リベラルが権利を強調する時、義務の重要性は全く否定されていない*3

ただし、リベラルの言う責任と義務の多くが「自由な選択」という観念に依拠しているのは事実である*4。つまりコミュニタリアンの言うような、自由選択に基づかなくとも引き受けなければならないような種類の義務、たとえば生まれた国家への忠誠を誓うこと、郷土愛を持つこと、その他特定の包括的な善の構想に付き従うことを〈要求すべきである〉というのならば、リベラルの多くはそのような義務への懐疑を示す。ここはリベラリズムとコミュニタリアニズムの議論の重要な焦点となる。

リベラリズムは個人が社会に埋め込まれ、共同体の中で構成されるという事実を見落としているのではないか?個人が社会に依存しているという理解を欠いているのではないか?

誤解である。リベラリズムは個人の自由や自律を尊重するが、人々が社会的に構成されるという事実を否定していない。リベラルはそのような不可能を主張しているのではない。

重要なのは、人々が社会的に構成されることが確かであるとしても、我々はその「社会的に規定された」選択肢に対して選択を行ったり、選択肢の制度配置を行ったりしているという事実である。リベラルは当該社会の構成に則った原理を単に是認すべきであるという結論は下さず、「社会的に規定された」ものについての選択や制度配置を考えているのである。これは、人々が社会・共同体によって構成されるという事実を見落としているのではない。

たとえば、ロールズは教育の役割について以下のような言及を行っている。

次のような教育の役割—すなわち、自分が帰属する社会の文化の享受および社会の運営への参画を可能にし、それを通じて各個人におのれの価値に関する確固とした感覚を与えるという役割—は、効率や福祉よりも重要だとまで言わないにせよ、少なくともそれらは同等に重要なのである。

ロールズ 『正義論』 第二章 正義の諸原理*5

正義や不正義といった属性は個人の行為に対して当てはまるものである。これに対して社会全体の分配は個人の意図に拠らない単なる結果であるから、正義や不正義といった属性は当てはまらないのではないか?

ハイエクの主張である。ハイエクは「社会の分配の結果は各個人の責任を問えないものであって、社会正義を実現しようとして行う国家の強制的な再分配は、本来責任を持たないはずの個人に対して正当化しえない干渉である*6」と主張する。

しかし、個人は、個人が意図したのではない結果についても責任を負う場合がある。車のブレーキのチェックを怠った結果他人を轢いてしまった場合、その個人は轢こうという意図を全く持っていなかったとしても、彼がブレーキをチェックすることは〈理に適っている〉ので、過失という罪を負うに値する。同じように、結果的に不正義をもたらす制度配置を人々が追認することは、不正義な行為として責任を負うに値するのである。すなわち「個々の行為主体と全体的な分配の結果との間の結びつきを断ち切ろうとするハイエクの試みは失敗して」おり、ハイエクは「個々人は、実際、個人としては、そのコントロールしうる範囲を超えているかもしれない結果を防止するために、他の人と協力して、政治的に行動することができるのだという事実」を見落としている*7

リベラルは社会の諸制度に正義の基礎付けを求めているが、そもそも生来の分配や分布および社会情況は絶対的な偶発性の下に存在するのであって、諸制度をどう整備しようともつねに欠陥を伴うのであるから、分配の正義は不可能なのではないか?

フリードマンがこれに近いことを述べているが*8、ロールズ自身が『正義論』の中で説得的な反論を行っている。ロールズによれば、実際、人々が何らかの差異を持って社会に生まれ落ちるのも、そうした人々が特定の地位を占めるのも、単なる偶然と自然本性的な事実に過ぎない。しかし〈人為的な制度がそうした自然本性的事実にどのように対処するか〉という点については、明らかに正義に適っているとか正義に悖っていると言えるのである。たとえば貴族制やカースト制は社会の基礎構造を自然本性の恣意性に依存させているという点で不正義であるし、人々はそうした制度を変革することができる。人間が行う制度の設計は、自然の偶発性に身を任せる必要は全くない。自然本性的事実の存在は、不正義を無視するべき理由にはならない。「社会システムは、人間のコントロールを超えた変革不可能な秩序ではなく、人間の活動のひとつのパターンにほかならない*9」のである。

正義と善について —善に対する正の優越

リベラリズムは多くの善を尊重するための重なり合う希薄な善、たとえばそれぞれの自由や自律、平等といった相互に合理的な正当化 (justify)ができるものを〈正義 (justice) 〉とする。そして社会の基礎構造においてはかかる正義を、何らかの特定の生き方を包括的に指示する善、たとえば特定の人生観、宗教、強い愛着、卓越性といったものよりも優越させる。学術的な議論のある部分だが、これについての基本的な誤解は排除しておく。

リベラルな政治は特定の善の構想に依拠しないと言うが、全ての善の価値を単に主観的、相対的なものとして懐疑的にとらえているのか?

いや、違う。まず解消しておかなければならないのは、リベラルは善の構想を全く持ち合わせていないという誤解である。リベラルはあらゆる道徳的価値がすべて相対的なものだと考えているのではない。リベラルは個人の自由や自律の道徳的価値を明らかに重要だと考えており、同時に国家が特定の包括的教説を(個人の自由や自律を侵害して)強制すべきではないと考えている。すなわち、かかる自由や自律の価値を相対的な価値の一つだととらえず、むしろ普遍的な価値としてとらえている。リベラルは自由や自律を平等に尊重するという正義の構想を、各人がそれぞれ選択する特定の価値、すなわち善の構想よりも上位に置いている。リベラルな正義は〈何が人々の人生を価値あるものにするかについて特定の教説を強要しない〉のであって、全ての善の価値に懐疑的なわけではない。

なお、善を相対的なものとしてとらえているという指摘は正しさや善さを社会的文脈に相対的なものだと考えるウォルツァーやマッキンタイアのようなコミュニタリアンのほうに当てはまるのであって、リベラリズムはむしろ正義の普遍主義的志向を持っている。(誤解無きよう付言するが、ウォルツァーの単一平等批判*10などは非常に説得力に富んだ議論であって、ここで述べていることはそれらを批判するものではない。)

では、リベラルな政治は、自由や自律、平等といったものに含まれない包括的な善の構想の価値についてはやはり懐疑的にとらえているのか?

包括的な善の構想の価値そのものを懐疑的にとらえているわけではない。しかし少なくとも、社会の基礎構造に特定の包括的な善の構想を位置付けることには懐疑的である。たとえばロールズの原初状態における当事者たちは、各自の善の構想をあらかじめ隠されていた*11。すでに述べたようにリベラルは一つの道徳的教説を持っているが、その教説は各々の善にまたがる希薄な善理論であって、自由や自律の理念に含まれない包括的な教説については、政治的に扱うべきではないと考えている。

リベラルは、たとえば「善き結婚観」に基づいて同性愛者の結婚を認めないとか、豚を食べてはいけないとか、週に一度は教会で祈るべきであるといったような善の構想は、政治的な場面に持ち込むべきではないと考える。リベラルはそのような特定の善の構想を、十分に合理的な人々が十分に合理的な議論を経てもまず一致しない対立を生むものであると考えている。リベラルは特定の包括的な善の構想が別の包括的な善の構想よりも優れているとか劣っているとかいう議論を好まないという点で、少なくとも善の価値議論(を政治的な場で行うこと)については懐疑的にとらえていると言える。

これについて、たとえばサンデルは次のような反論を提示している。人々は善の価値議論を通してより善い価値に到達できる可能性を持っており、政治的議論に我々の持つ善の教説を持ち込まないことは、そういった可能性を排除しているのではないか、と*12

リベラリズムは自由を尊重するばかりで道徳に対して無関心ではないか?

ここで言う道徳が特定の生き方を指し示す包括的教説であるならば、確かにリベラリズムがそれを人々に強く求めることは無い。リベラルは特定の宗教や特定の文化を善なるものとして奨励したり、あるいは特定の生活様式や特定の趣味嗜好を、それらの内在的価値が悪であるという理由から禁止したりすることを好まない。なぜならリベラリズムは、対立する包括的教説や各人の自律をそれぞれ尊重するという一つの道徳的教説を持っているからである。

リベラルは、各人の自律や自由を尊重、配慮することを除いては、人々がどのように生きるべきかという特定の包括的教説を強要しない。だがこれは道徳に対して無関心であるというよりも、全ての個人が各人の包括的教説を追求できるべきであるという考えに拠っており、リベラルはそれこそが正義に適っていると考えているのである。繰り返しになるが、リベラルはかかる正義が特定の包括的な善に優先すべきであると考えている。

リベラリズムは社会を個人の便益を追求するための集団としてしか考えておらず、社会的な紐帯や共通価値の追求を軽視しているのではないか?*13

リベラルが否定するのは、ある善の構想を国家が奨励することで別の善の構想を妨げるとか、特定の生活様式をとらない限り対等な市民として扱われないというような事態である。リベラリズムはそのような事態を否定し、〈全ての市民に対等な自由と自律を保障すべきである〉と主張する。これは明らかに社会的紐帯や共通価値の一つの形であるし、かかる枠組みは人々が協同的な活動や共通価値を実践する可能性を完全に含んでいる。

よって、もしリベラルな構想と社会的紐帯や共通価値が矛盾すると考えるのであれば、それは次のような形態になる。すなわち〈国家は市民相互に同様の自由や自律を保障することを超えて、何かを強制すべきである〉というものである。これを主張する限りにおいて、社会的紐帯や共通価値という言葉がリベラリズムと対立することになる。

おわりに

リベラルは善を正義によって秩序付けようと考えている。最後に、その思想的な核について少し触れておきたい。

人間の可謬性を考える

リベラルが善を考える時、そこには大きな前提がある。すなわち、人々の善が時として深刻な対立を招いたり、あるいは厖大な謬りを犯したりするという事実である。リベラリズムのルーツを宗教戦争にみることは多いが、善の可謬性については紀元前まで遡ることができる。

おそらく人類の中で最も賢明で道徳的だったと言える二人、ソクラテスとイエス・キリストは、公的な死刑に処されることでその生を終えた*14。強調しておきたいのは、彼らを裁いた人々は決して悪人ではなかったし、裁判は全く非道徳的なものではなかったという点である。ソクラテスとイエスは、道徳心や愛国心、善き社会の紐帯を維持しようという真摯な熱意を十分に持った人々による慎重で誠実な裁判の結果、不信仰と不道徳の罪に問われたのである。イエスを死刑に追いやった人々について、倫理思想不滅の古典であるJ. S. ミルの『自由論』では以下のように言及されている。

これらの人たちはどうみても悪人ではなかった。普通より悪い人物だったわけではなく、正反対だったともいえるほどである。それぞれの時代と国の人びとがもっていた宗教心、道徳心、愛国心を十分に、あるいは十分以上にもっていたのであり、どの時代にも、もちろんいまの時代にも、非難を受けるどころか、尊敬される一生を送る可能性がきわめて高い種類の人物であった。裁判にあたった大祭司はイエスの言葉を聞いて自分の服を引き裂いたというが、当時の考え方からは極悪の罪になる言葉だったのだから、その憎しみと怒りが本心からのものであったという点でおそらく、いま、高潔で敬虔な人の大部分にとって、各人が公言する宗教的道徳感情が本心からのものであるのと少しも変わらなかったはずである。大祭司の行為に戦慄する人びとの大部分も、同じ時代にユダヤ人として生まれていたとすれば、まったく同じ行動をとったはずである。正統派のキリスト教徒は、石を投げて初期の殉教者を殺した人たちについて、自分たちより悪い人間だったと考えたがるだろうが、そのひとりが聖パウロであったことを思い起こすべきである。

ミル 『自由論』 第二章 思想と言論の自由*15

ミルの死から半世紀後、ヒトラー率いるナチスはドイツ国民の熱狂的な支持を受け、ホロコーストを現実のものとした。相異なる人々の不寛容と対立は、いつでも数多の犠牲を積み上げてきた。これに対しリベラリズムは、相異なる人々の共生原理を探究することで抗おうとする。リベラリズムは、善き生に対する解釈の深刻な不一致、そして人々の善が持つ可謬性を認めながら、全ての人々が相互に受容すべき公共原理、すなわち正義の模索を試みているのである*16

  • 文献目録
  • *1: 政治的なリベラリズムと経済的自由主義と区別するために、政治的なリベラリズムについてはカタカナ表記が好まれる。
  • *2: cf. 〔スウィフト 2011: 195-196〕
  • *3: cf. 〔スウィフト 2011: 199ff.〕
  • *4: cf. 〔スウィフト 2011: 203-204〕
  • *5: 〔TJ 136〕
  • *6: cf. 〔ハイエク 2007〕
  • *7: 〔スウィフト 2011: 34〕
  • *8: cf. 〔フリードマン 2008〕
  • *9: 〔TJ 137-138〕
  • *10: cf. 〔ウォルツァー 1999: ch. 1〕 ウォルツァーの複合的平等、財の理論は非常に生産的なロールズ批判と言える。
  • *11: サンデルはこれを批判している。 cf. 〔サンデル 2009; 2011〕
  • *12: cf. 〔サンデル 2009; 2011; 川本 2005: 210-213〕 私見では、サンデルのロールズ批判は現状あまり生産的ではない(どのような政治的基礎付けを狙うのか明瞭ではない)。
  • *13: cf. 〔スウィフト 2011: 212-216〕
  • *14: cf. 〔プラトン 2002〕 なおルソーも『エミール』、『社会契約論』を著したことで「不信心で破壊的な傾向を持つ」として逮捕状が出され、宮廷、教会、市会、あらゆる文筆家から迫害、弾圧された〔ルソー 1954:234ff.〕。
  • *15: 〔ミル 2011: 59-60〕 cf. 〔関 1967: 242-243〕
  • *16: cf. 〔井上 2011: 92-93〕
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