『正義論』への疑問と回答

はじめに

ロールズのリベラリズム」を踏まえながら、『正義論』に関する基本的な理解をより正確にするため、いくつかの疑問について検討していく。後半では卓越性原理からの反論を取り上げる。

『正義論』に関する基本的な疑問

ロールズは功利主義的発想自体を一切認めていないのか?

いや、そうではない。ロールズは実践段階における功利主義が正義の二原理の指し示す選択と部分的に両立する可能性を否定していない。原初状態で選択された合意の下で、正当に制限された文脈において、手段的に採用される可能性を否定する必要は無い。ただしそれはあくまで正当に制限された文脈の中で手段として採用されうるだけであり、正義の原理にはなりえない。古典的功利主義は、道徳原理としては適切ではない*1

ロールズは才能に加えて努力さえも恣意的な分配に過ぎないと言うが、そうであるにしても、努力の功績を一切認めないことは制度設計上の無理があるのではないか?

いや、違う。ロールズは努力に対して社会が報いることを完全に否定しているのではない。ロールズはあくまで〈努力は道徳的真価として報われるべきものではない(それは不可能である)〉と述べているのであって、特定の制度的枠組みの中で「その立場に値する」という言明を却下しているわけではない。

たとえば、あなたが医師国家試験に合格することで高賃金が得られるシステムの中で(少なくとも部分的には)その高賃金への期待に基づいて活動し、結果的に医師免許を取得するに十分な努力を成し遂げてきた場合、あなたは〈かかる枠組みにおいて、その資格を得るに値する〉と言うことができる。なぜなら、特定の能力を持つ者が特定の資格を得るという制度それ自体は、道徳的な真価を何ら主張していないからである*2

しかしこのことは〈あなたの努力と才能それ自体〉が〈特別な報酬に値するような道徳的真価を持つ〉ということを全く意味しない。実際上、人が持つ能力を自然の恣意的な分配から切り離すことはできないのであるから、真価に報酬を与えるという制度は実行不可能なのである。それゆえに、試験に合格する能力に対してより多くの報酬を与えるようなシステムは、本来的には自然的、社会的恣意に基づいた不正義な制度なのである。(正義の二原理においては、かかる不正義は格差原理の枠組みに入ることで道徳的な正当化を得る。)

ロールズは人々が自由意志に基づいて努力し未来を切り開けるという事実を認めていないのか? なぜその事実に報いる制度を拒否するのか?

ロールズは個人の行動が全て自然的ないし社会的な偶然に左右されると述べているのではない*3。そうではなく、人が行う努力や選択は当人のコントロールを超えた要因に強く影響されることが自明であるから、〈単純にその能力に応じて報酬を分配することは不正義である〉と主張しているのである。どう考えようとも、自然的、社会的恣意から各人の努力や選択を完全に分離して評価することはできない。そういった実現不可能な評価基準を持ち出すのではなく、あらかじめ社会の成員の能力や運を分かち合うような格差原理を採択するほうがよほど理に適っている、ということである。

我々が自己に関するあらゆる情報を奪われた状況で結ぶ仮説的な契約の数々は我々が現実で取り結んだ契約ではない。そのような契約は現実において拘束力を持たないのではないか?

いや、違う。ロールズは「あなたは契約に同意したのだから、それに従うべきだ」と主張しているのではない。ロールズは、原初状態という仮説契約装置によって正義の原理がよりよく特定されたので、その正義に適った行動せよと主張しているのである。

なおロールズは正義をよりよく特定する方法があるならばそれを使うべきであって、原初状態がその唯一絶対の方法とは限らないとも述べている。

原初状態の当事者が行うとされる平等を求める傾向は、他者への妬みの発現ではないか? これは互いが足を引っ張り合うための理論ではないか?

いや、違う。たしかに平等を求める性向が妬みから発露する面は否定できず、ゆえに政治的保守派は平等を求める運動を妬みの発現とみなすことも多い。

だが正義の二原理に関する限りは、かかる原理が採択される過程を考えればそれが間違いであるとわかる。原初状態の当事者たちは無知のヴェールがもたらす性質上そのような相互感情を持ち得ず、正義の構想は誰も嫉みや恨みによって動かされることのない仮説的な条件のもとで選択される。すなわち当事者たちが支持する平等への権利要求はそうした悪意に発するものではなく、正義の二原理の根底にある平等観は妬みとは異なる*4。かかる平等観は我々の持つ公正の感覚に根ざしているのであって、悪意の感情ではない。ロールズはかかる公正の感覚をスポーツにおけるフェアプレー精神に喩えている。

格差原理は有能な人々がより多くの苦労を成し遂げようとするインセンティブを削ぐようにみえるが、そのような制度は結局全体のパイを縮小させる悪しき平等主義ではないか?

いや、違う。格差原理は最も恵まれない人々に最大限資するように格差を設計するのであって、この定立はインセンティブの問題を完全に含むことができる。極端な平等志向やインセンティブを阻害するような制度は各人が持ちうる基本財を縮小させる可能性が高く、最も不遇な人々に最大限資するような制度とは言えない*5

しばしば誤解されることだが、〈格差原理は単なる平準化を志向しているのではない〉。この原理は一部の人々を著しく犠牲にしてでも効用総和を最大化するような制度設計を容認せず、最も恵まれない人々にさえも資するような形においてのみ格差と効用増大を企図するのである*6

格差原理にみられるように、原初状態の当事者は極端にリスク回避的な思考を行っているようにみえる。たとえ少ない確率であったとしても最大の効用を享受できる立場が存在するならば、それを求めて賭けに出る人々もいるのではないか?

まず、そのような性向自体が無知のヴェールで隠されているということを思い出されたい。自身の性格がわからないまま合理的な選択のみを行っていくと、賭けを容認するような制度選択は行われない。

ここでの合理性を想像するには、ある選択を最高裁判所の裁判官が判決として下した場合でも妥当と言えるかどうかを考えてみればよい。全国民から集めた年金基金を「五割の確率で全てが失われてしまうが、残り五割の確率で倍になる」ような投資に使う制度設計は容認されないだろう。そのような制度では当事者たちが相互の安心や安全、尊厳といったものを保障することができなくなり、潜在的な面も含めて多くの基本財が損なわれる。

原初状態の利己的な個人という設定は、人々が持つ奉仕的、自己犠牲的側面を見落としているのではないか?

〈原初状態の当事者たちが持つ自己という概念は社会の全員に対して自己を分裂させた状態で成り立つ〉という「なぜ原初状態の当事者たちは自己利益に基づいて決定することが合理的なのか」の項で行った説明がまず一つある。それに加え、かかる自己犠牲的行為は広範な社会一般の基礎構造として制定されるべきものではない。自己犠牲というものの本質をひとたび考えるならば、それが社会の基礎構造として組み入れられるべきものではないとわかる。制度として組み入れた時点で、自己犠牲の持つ本来的な意味から離れることになるだろう。

無知のヴェールをかけられた人々は利己的に利益を追求するものとされる。ロールズは人間本性を不当にエゴイスティックにとらえ、人々が持つ協同的な本性をとらえ損なっているのではないか?

いや、違う。ロールズの理論は自己本位的な人々をモデルにしたものではない。なぜならば、人々が持つ協同的な本性は「無知のヴェールを被る」という段階で最も適切に表現されているからである。無知のヴェールをかけた状態で互いが従うべきルールを定めるということは、社会を協働の枠組みととらえ、同胞市民を適切に取り扱うことに配慮し、〈すべての市民を自由かつ平等だとみなす〉ことである。つまりロールズの理論は、他者への気遣いを完全に含んでいる*7

卓越性原理からの反論

卓越性原理とは芸術や科学、文化における人間の卓越性を最大化することを目的として社会制度を編成し、かかる目的を達成するような義務を各人に負わせるような原理である。卓越主義思想はアリストテレスにまで遡ることができるが*8、最もラディカルに卓越主義を主張していた者の一人はおそらくニーチェである。彼はゲーテやソクラテスのような偉人の生活に絶対的な価値を見いだしており、人類の目的とは、偉大な諸個人を産出するために努力を重ねることであると考えていた。

人類は個々の偉大な人間を産み出すことに絶えず従事すべきである—これこそ人類の課題であり、その他の如何なることもそれではない。〔……〕けだし、問題は確かに次のようになるのだ。個人としての汝の生が最高の価値を、最深の意義を保つのは如何にしてか? 確かに、汝が極めて希有な極めて価値ある範例に有利であるように生き、大多数者、すなわち個々別々にとれば極めて無価値な範例に有利であるようにではなく生きることによってのみである。

ニーチェ 『反時代的考察』 第三篇*9

ニーチェほどラディカルでないにせよ、我々は何らかの形で卓越性に関するような直観を持っている。我々の多くはチェスや将棋の技能を高めることが牛乳瓶の蓋を集めることよりも内在的価値があると考えているし、美しい絵画は落書きよりも内在的価値があると考えている。そして、そのような価値は、時には一定の犠牲を伴ってさえ奨励されるべきであるとも考えている。このような発想から、ロールズのリベラリズムに対して以下のような反論が提出されるだろう。

ロールズは基本財の分配的正義に着目するばかりで卓越性の基準を全く考慮していない。ロールズやリベラルは表面的な分配の公正さしか語っておらず、そのような制度で作られる社会は文化の卓越性や気品といった内在的価値を欠くことになるのではないか?

これについてまず言及しておくべきことは、ロールズは卓越性の諸基準を本来存在しないものとしているとか、あるいは無視しているというわけではないということである。むしろ、卓越性の諸基準が合理的な基礎を持っており、芸術や科学において十分客観的な内在的価値基準が存在することを認めている。なおかつ、そのような価値判断が人々の生に大きな意味を持ち、そうした卓越性基準によって達成される種々の知識や技芸が人々の暮らし向きに寄与しうることも認めている*10

しかし、卓越主義者が言う通り、ロールズが設定する原初状態の条件下では、卓越性に基づいた原理は採択されない。なぜなら、卓越性基準が正義の原理として採択されるならば、個人が享受する権利と機会の配置形態は、その個人が持つ卓越性の度合いに左右されることになるからである。当事者たちはそれぞれが異なる能力、善の構想を持っていることを知っており、各人が善の構想を追求するために必要となる自由や平等の権利を犠牲にするような原理は選ぶことができない。

しかし〈公正としての正義に基礎付けられた社会は、卓越性の諸価値が人々に認められることを否定しない〉。人々は正義の二原理に基づいた体制の中で、自らの卓越性基準に合致する国家の政策を提案することができるし、そうした政策に賛成票を投じることができる。たとえば、市民が賛成するなら美術館や国立公園、学術研究、その他卓越的な文化や技術に補助金を支出することができるのである。

ロールズが認めないのは、憲法のような社会の基礎構造を規定する正義の構想が、かかる卓越性基準によって基礎付けられるような事態である。すなわち、〈特定の卓越性に内在的価値があることを根拠にして市民に義務を課すような行為は許されない〉。そのような義務が正当化されうるのは正義の二原理に基づく場合、つまり、平等な自由をより強固にするとか、最も不遇な人々に資するというような場合だけであって、最も不遇な人々をさらに不遇にすることで卓越性を最大化するような政策は決して認められない。ロールズの構想における卓越性は、人々の権利をより確かにすることへの見返りや、市民間での自発的な貢献によって促進されるのである。

正義の二原理が統制する体制では、芸術、科学、文化一般の向上に熱心な連合体を支えるために必要な社会資源はすべて、提供されたサービスへの正当な見返りとして、あるいは市民たちが望んでなす自発的な貢献から、獲得されることになる。

ロールズ 『正義論』 第五章 分配上の取り分*11

すなわち、ロールズ流のリベラリズムは卓越性を全く認めない思想ではない。しかし、社会の基礎構造に採択する道徳的原理としては、自由や平等を不確かなものにしてしまうために、適切ではないとするのである。

なおこのような卓越性基準をより積極的にリベラリズムに取り入れていこうとする論者もいる。卓越主義的リベラリズムを最も体系化したジョセフ・ラズによれば、政府は個人の自律と選択を尊重しながらも、たとえば補助金といった形で特定の価値ある善を促進し、課税という形で空虚な生き方を抑制すべきであると言う*12

おわりに —ロールズと宗教的善

最後に、ロールズ自身の宗教的価値観に関する余談を添え書きする。

ロールズは第二次世界大戦の戦時協力体制の下でプリンストン大学の学部を繰り上げ卒業し、陸軍に入った。レイテ島上陸作戦とルソン島での白兵戦に参じ、ルソン島で交代要員として待機していた四五年の四月、彼はナチスの強制収容所の記録映画を観てホロコーストの実態を知る。元々ロールズは戦争が終わり次第神学校に進んで米国聖公会の司祭になることを志望していた。しかし、世界大戦のもたらした絶対的に非情な現実を前にして「そもそも祈りが可能なのか」という深刻な疑問を突きつけられることになったのである*13。このエピソードについてはロールズの遺稿「私の宗教について」の証言を元に、『正義論 改訂版』の訳者あとがきにて川本隆史がまとめている*14

数百万のユダヤ人をヒトラーの魔手から救い出さなかった神に対して、私や家族、祖国を助けてくれなどと、いったいどうやって祈願できるというのだろうか。南北戦争を奴隷制という罪に対する神罰だと介したリンカーンには、なお神の正義のはたらきが見てとれたのかも知れない。けれども、そうした神意を持ち出してホロコーストを解釈することは不可能だろう。歴史を神の意志の表れと理解するためには、神の意志なるものと最も基本的な正義の理念とが合致していなければならない。だが二〇世紀の戦争と殺戮の歴史の中に、神意と正義の合致を見抜くのは至難のわざである。「よって程なく私は、至上なる神の意志という考えを—それが同時におぞましく邪悪なはたらきをするとの理由から—受け入れなくなっていった」。

ロールズ 『正義論』 訳者あとがき*15

ロールズは戦争の悲惨さと生存の偶然性を突きつけられるうちに宗教的な倫理から離脱し、神の正義(裁き)ではなく社会の正義(まともさ)へと関心を向け変えた。このことは『正義論』の解釈如何を目的とはしていないが、付言しておく価値はあるかもしれない。

  • 文献目録
  • *1: cf. 〔TJ 444〕
  • *2: cf. 〔スウィフト 2011: 67-68〕
  • *3: cf. 〔スウィフト 2011: 64〕
  • *4: cf. 〔TJ 706〕
  • *5: cf. 〔TJ 144〕
  • *6: cf. 〔TJ 136〕
  • *7: cf. 〔スウィフト 2011: 45〕
  • *8: cf. 〔アリストテレス 1971〕
  • *9: 〔ニーチェ 1993: 293-294〕
  • *10: cf. 〔TJ 435〕
  • *11: 〔TJ 436〕
  • *12: cf. 〔ラズ 1996〕 これは幾分コミュニタリアニズムに近い考えではあるが、強制そのものはしないという点でリベラリズムに属するとされる。
  • *13: また、彼は占領軍の一員として原爆投下後の広島にも訪れている。
  • *14: cf. 〔TJ 780-783〕
  • *15: 〔TJ 782-783〕
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